寺報と今月の言葉


今月の言葉

 

「南無阿弥陀仏」はわずか六文字でありますが、「南無阿弥陀仏」を称えるところに、仏さまの声が聞こえてくるのです。     

             (一楽 真 師)


寺報 平成30年8月発行

【信じ込むことが信心ではない】
 ふつう信心というと、何かを信じ込むこと、あるいは疑わないように頑張ることだと思われているのです。例えば、このペンダントを持っているといいことが起こりますよ、というようなことを信じる。でもそれは中身がないでしょう。本当かどうかわからないのです。ところが、親鸞聖人の信心はそうではないのです。無理やり信じ込むことではなくて、「ああ、そうだったのか」ということがはっきりしたということです。
 無理やり信じ込む、疑わないように頑張る。一般にはこれが信心だと思われているのではないでしょうか。教祖さまの言うこととか、ペンダントや壷の力を疑わずに信じ込む。いわば「不疑」、疑わないように頑張るのです。それに対して親鸞聖人が言われる信心は、疑いようがないということです。これを「無疑(むぎ)」とおっしゃいます。
 親鸞聖人は「疑い」を大切にされた方です。あれほど疑い続けた人はないと言ってもいい。例えば比叡山を下りられたとき、親鸞聖人はそれまでに二十年間修行してこられたわけです。それなのになぜ山を下りたのか。それは、「この修行を続けて、本当に苦しみ、悩み、傷つけ合うことを超えられるだろうか?」と疑われたからです。
 教えを信じ込んでいる他の人は、山の上にずっと居たわけです。修行を続けていれば、そのうち苦しみから解放されるだろう。それを信じられる人は、山の上に居続けることができました。しかし、親鸞聖人は信じられなかったのです。疑いがあったのです。
 そして山を下りて、法然上人を通して浄土の教えに会ったときに初めて、「ああ、そうだったのか!」ということがはっきりわかったのです。これが「信知(しんち)」です。疑いようがないということです。何がはっきりわかったかと言えば、どんな修行をしても、勝った負けたとか、役に立つ立たないというような比べ合う根性を超えられない私だということがはっきりわかった。修行を何年かすれば、そんな気持ちがなくなるのではないということがはっきりとわかったのです。
 しかし親鸞聖人は、「なくならないからしかたがない」と開き直ったのではないのです。煩悩は消えないから、煩悩中心に生きればいいということを言ったのではありません。煩悩があるからこそ教えに導かれ続けないといけないというのが、親鸞聖人の立場です。                                    (一楽 真 師)
  

 


カレンダーの言葉 平成30年8月


 

仏恵明浄なること日のごとくにて、世の痴闇冥を除く。(仏恵明浄日 ぶってみょうじょうにち 除世痴闇冥 じょうせちあんみょう)

 智と恵(慧)と、必ずしも常に区別するわけではありませんが、そして智恵と熟字して用いるわけですから、けっして別々なはたらきではありませんが、しかしあえて区別して用いるときは、恵(慧)は根本無分別智を、智は後得清浄世間智を意味するとされます。
 この『論註』においては、曇鸞大師は、智と慧を区別して、 
  進むを知りて退くを守るを智と日う。空無我を知るを慧と日う。智に依るがゆえに自楽を求めず。
 慧に依るがゆえに我心、自身に貪着するを遠離せり。
と釈されています。智は、衆生済度のために世間にはたらく智慧であり、慧は自らに空無我の理をあきらかに生きる智慧です。空無我の理にあきらかな慧にして、はじめて世間において衆生済度の清浄智としてはたらき、世間にはたらく清浄智において、はじめて恵が恵としての具体性を全うするのでしょう。あえていえば「仏恵明浄日」は、恵の成就を意味し、「除世痴闇冥」は智のはたらきをうたわれているということもできます。

 そして、いま『論註』には。
 我が国土の所有の光明は能く痴闇を除いて、仏の智恵に入らしめて、
とあります。「痴闇」というと、ともすれば、何も知らない愚かさをイメージするのですが、じつはそうではなくて、なんでもわかったことにしていて、常にあらためて聞き直していくところの心を失っている愚かさなのです。

 つまり、わかったことにしたとき、私たちは心を閉ざしてしまうのです。その心を閉じているところに、闇があるわけです。そして、心を閉じさせる一番根本にあるものは、やはり自己固執です。それは自分の思いや体験を、絶対正しいものとして固執しているのです。いつも例として出すことでいいますと、一切の光が失われた闇の中では、人は手さぐりで動きまわるよりほかないわけですが、その手さぐり、つまり
自分の手に触れたかぎり、つまり自分の体験したかぎりのところで判断し、決めてしまうことなのです。頭からわかっていることにしてしまっていて、心を開いて問い直し、聞き直すことをしない、その闇さです。
 もともとこの闇の字は、おおう意の語源(掩)から来ている文字で、門をとじるという意味が根本にあります。冥もまた同じように、ある場所に幕をかけて暗くするさまを表すともいわれています。つまり闇も冥も、おおわれているくらさです。世間に流布している無責任な通説、自分のわずかな体験にもとづく知識で心をおおい、心を閉ざしてしまっているくらさです。そのくらさは、なにも知らない、無知のくらさよりも、自分はわかっている、知っているとしているだけに、より深い闇に閉ざされてしまうわけです。自分の知識に自信をもっているものほど、聞く耳をもたぬものだからです。 

 

 

教化センターリーフレット                                                平成30年8月号

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