寺報と今月の言葉


今月の言葉

仏の世界を知らないわれわれに、仏の世界を知らせるというはたらきを南無阿弥陀仏という
  (平野 修 師)
 


寺報 平成29年8月発行

【往生浄土】 
 もし生まれ出てきた場、そこで生きている場が自分を満足させ、自分をそこに充実させるなら、ほんとうに場所を得たということになります。ところが、いまわれわれは、この世に生きていて、なんとなくうさん臭い調子であり、なにをしているのかわからないから、ひどい世界だなということになれば、心の底では違う場というものを求めているということがあります。人間はどういうわけか、場に生まれ、場を作り、場ということを離れられない存在です。小さな場としては、家庭というのも場ですし、そしてすこし大きくなれば、六親眷属(ろくしんけんぞく)とか、親戚とか、そういうものが入ってくる場ですし、それがもっと大きくなれば、国の単位の場になります。いま仏に帰依するということは、そういう国という場にも、家庭という場にも、すこし広く地域という場にも属さないで、それらを超えているという意味がある。
 われわれは、この地球に往生してきたのです。ところが、それで満足であるというわけにいきませんから、またその中で場を考えていきます。そういう意味では、『歎異抄(たんにしよう)』の第二条にいわれているように、「往生極楽の道」をわれわれは問い尋ねているわけです。ほんとうに自分を生かし、他を生かすような、そしてそこがほんとうに通じ合うような場、そんな場をどこに見いだしたらいいのだろうかと求め続けているのですから、われわれはずっと往生浄土の旅を続けているといっていいわけです。
 この地球に生まれたから、それで終わったということではない。それは旅の途中です。そして、どこにも自分の充足できる場所がないということになりますと、旅は終わらないわけです。
 そういうふうに、往生という問題に空間という視点が入ってきますと、われわれが生きている事柄が、いわゆる場を求める、つまり浄土を求める歩みだということになってくると思います。あの会社は、人間関係がうるさくて居たくない、もっと違う場所に行きたい。こういうことになりますと、その人はやはり往生ということを求めているわけです。人間が生きているありさまというのを、場を求めていくという視点から考えていきますと、人生は往生浄土の旅というふうに言うことができます。
 毎日なにをしているのか。場を求めているのです。それはどんな場であるのか。いちおう考えられ人間は常に場を作るということを目指して生きている存在です。往生という事柄も、これは場の問題です。われわれは絶えず、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)ではありませんけれども、場の建立ということをいつも考えているわけです。いま自分の居る所をこういう場所にしたい。自分がこうなった場合には、こんな場所でありたい。門信徒の関係はこんなふうでありたいとかというのは、みんな場の問題になっています。このように、人間というのは、場を求めて生きている存在です。そういう人間の問題に往生浄土ということをもってこたえているのが浄土真宗なのです。                                      (平野 修 師)

 


カレンダーの言葉 8月

論註には「荘厳形相功徳成就とは、偈に「浄光明満足 如鏡日月輪」といへるがゆゑなり。これいかんが不思議なる。それ忍辱は端正を得。わが心の影響なり。一たびかしこに生ずることを得れば、瞋・忍の殊なりなし。人天の色像は平等妙絶なり。けだし浄光の力なり。かの光は心行にあらずして心行の事をなす。いづくんぞ思議すべきや。」とあります。

 

訳しますと「形相を特相とする円かなしつらいとは、願生偈に『清浄な光明で満ちあふれ、照らすこと鏡、太陽、月のごとくである』と説かれているからである」
 なぜ、この形相というしつらいが、われわれの思いはかりを超えたものであるのか。
 およそ、忍耐は身体を端正にする。それは忍耐心が身体に影響したからである。そのように、一たび安楽浄土に生まれると、そこでは怒りと忍耐による報いの差別などなく、生まれた人の容色や姿は、みな等しくて、この上なくすぐれている。思うに、これは浄土のもつ清浄な光明の働きによるのである。浄土の光明は心の働きではないが、心の働きのように働くのである。どうして、われわれは思いはかることができようか。

阿弥陀如来如來の智慧の光が身に満ちてはたらいて下さっているのです。

 


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