寺報と今月の言葉


今月の言葉

 

「仏の世界を生きる人々から見守られ、念じられておることを感ずる、それが正定聚の数に入るということを表してくる。」

 

 

           (宗 正元 師)


寺報 平成30年6月発行

 【極楽という世界】                         
 仏によって説かれている真実の教えを人間の凡夫の心で解釈すると、間違うことが多いのです。たとえば『阿弥陀経』の中に、極楽という世界は「衆の苦あることなし。ただ諸の楽を受く(無有衆苦但受諸楽(むうしゅうくたんじゅうしょうらく))」という有名な一句があります。極楽へ行ったら苦しみがないと説かれているのです。では人間の苦しみは何かというと、生・老・病・死です。生まれ、年をとり、病気をして、死ぬという、これが人間の苦でしょう。その人間の苦がなくなると考えると、極楽へ行ったら年をとらないのだなあ、死なないのだなあ、健康でうまいもの食べておれるのだなあ、きれいな着物を着ておれるのだなあという解釈になります。これが凡夫の解釈なのです。もしほんとうにそんなことが説かれてあるのだったら、『阿弥陀経』はくだらないお経です。それじゃ、ほんとうは何が説かれているのかといいますと、そこでは「いま現にましまして法を説きたまう(今(こん)現(げん)在(ざい)説法(せつぽう))」のであるから、その仏の説法に出遇ったら、私たちに今まで苦として迫ってきた生老病死という事実が、苦しみという意味を失って引き受けさせてもらえるものに変わっていくということです。
 極楽に生まれても、生まれたからには病気はします。年もとりますし、死にもします。しかし、それが苦しみとなって私に迫ってこない。引き受けさせてもらうものとして、苦悩という意味を失ってしまう世界のことを極楽というのです。ですから、釈尊が不死の法を説こうといわれたのも、そういうことなのです。
 釈尊は、生老病死という苦しみからどうやって抜け出すか、解放されるかということを求めて出家されたわけです。その結果、生老病死という苦が、じつは人間の執着、自分がかわいいという自分の命に対する執着が基本となって、苦しみとなって迫ってくるのである。その事実が明らかになったら、生老病死という苦しみは苦しみとしての意味を失う。
 そして、私たちはそれを当然の事柄、いただきものとして引き受けていくものとして受けとめられるようになる。そのときに、死が苦しみの原因としての死の意味を失う。それが不死ということです。死を越えるということは、死が苦悩として迫ってくる意味を失うということ。その真実が明らかになったというのが、仏教の覚りということです。ですから『阿弥陀経』は「無有衆苦但受諸楽」なのです。それが「赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)、白色白光(びゃくしきびゃっこう)」と説かれているのです。赤き色には赤き光、白き色には白き光あり、これが極楽の世界です。                                   (小川一乗 師)

                  
 


カレンダーの言葉 平成30年6月


荘厳虚空功徳成就とは、偈に「無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発響    宣吐妙法音」といへるがゆゑなり。これいかんが不思議なる。『経』(大経・上)にのたまはく、「無量の宝網、仏土に弥覆し、みな金縷、真珠、百千の雑宝の奇妙珍異なるをもつて荘厳し校飾して、四面に周匝せり。垂るるに宝鈴をもつてす。光色晃耀してことごとくきはめて厳麗なり。自然の徳風やうやく起りて微動す。その風、調和にして寒からず暑からず。温涼柔軟にして遅からず疾からず。もろもろの羅網およびもろもろの宝樹を吹きて、無量の微妙の法音を演発し、万種の温雅の徳香を流布す。それ聞ぐことあるものは、塵労の垢習自然に起らず。風その身に触るるにみな快楽を得」と。この声、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。

 

われわれに仏法が聞けたということは、九十九・九パーセントまで受け身であっても、〇・一パーセントのところで、「自ら在り」と言えるということです。信心の獲得とは、「自ら」ということを獲得するのです。その一点において、九十九・九パーセントまで受け身としか受け取れないようなことと、〇・一パーセントとが措抗し、釣り合い、また、切り結んでいくことができます。このことの他に、仏
の法を聞くということの意味は考えられないように思われます。

 『歎異抄』第二条の、「面々の御はからいなり」という表現には、信ずる信じないということは、こちらから押しつけるものではないということで、相手を尊重されたという意味ももちろんあります。けれども、親鸞の信心に即して言えば、こういう意味になるかと思います。
 信ずるということだけは権威とか、事情によって起こるのでない。おおよそ信ずるということだけが、自ら決定できるただ一つのことである、と。それは、自らが真実と対面し認識し決断することによって、「自ら」ということが生まれるのだ、と。
 そこに信ということがあるのであって、そういうものを権威の名において、その時の状況によって売り渡すなというのです。売り渡せば人間はどこにもいなくなるのだ、と。そういう意味が、「面々の御はからいなり」ということで言われた意味かと思います。
 これは非常に熱っぽいことばだったであろうと思いますね。売り渡してはならないものがあるのだ、と。売り渡せば全部が受け身になる。そういうところに仏法を見ていらっしゃったかと思います。

 

教化センターリーフレット                                                平成30年6月号

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