寺報と今月の言葉


今月の言葉

気がついてみれば、あの出来事が今の私をつくってくれた。

考えてみれば人生に無駄なことなど何ひとつなかった。

(一楽 真 師)



寺報 平成31年4月発行

【念仏の教えは「濁世の目足(じょくせのもくそく)」】
 「お浄土はどこにあるのですか?」と聞かれると、私は「それはどこか遠くにある場所ではないでしょう」と答えます。それは今ここにいても、どういう眼(まなこ)でものを見るかによって、世界が大きく変わってくるからです。
 お金を中心にして見れば、売れるか売れないか、得か損かという世界しか見えませんね。そんな眼では、下手をすると自分の子どもまで「この子はようけ稼いでくれるかもしれん」と見るかもしれません。「せっかく育てたのに、この子はぜんぜんお金を稼いでくれん」と不満をもらすかもしれません。そんなことでいいのでしょうか?
 お浄土というのは、どこか遠い場所にあるのではないのです。浄土の教えを通して、仏さまが照らし出すいのちを見せていただくと、白菜ひとつ目の前にしても、「私が頑張って育てましたから」とか、「肥やしをたくさんあげましたから」というのではないのです。太陽が照ってくださってこんな白菜になりました。雨が降って、大地がはぐくんでくださったからこんな白菜になりましたと、それを見る眼が変わるのです。自分の子どもをどう見るか、まわりの人をどう見るかが大きく変わってくるのです。
 親鸞聖人は、浄土の教えが今の自分の生き方に大きくかかわるということを大事にされました。お浄土はお棺に入ってからの話ではないのです。そうではなくて、どこに帰るかが決まれば、自分は何を大事にして生きるのか、今の生き方が変わるのです。ものごとをどう見るかという、ものの見方が変わるのです。これが、教えをいただくところに開かれてくる新しい世界なのです。 

 親鸞聖人は、いつも私たちがお勤めする『正信偈(しょうしんげ)』のほかに、「西方不可思議尊(さいほうふかしぎそん)」というお言葉から始まる『念仏正信偈』(文類偈(もんるいげ))をつくっておられます。その中で念仏の教えを「濁世の目足」(真宗聖典四一三頁)と押さえてくださっています。   
 「濁世」というのは「濁った世の中」ということです。濁っているということは、ものがはっきり見えないということですね。そういう現実の世の中を生きていく中で、「この念仏の教えは、私たちの目であり、足である」と教えてくださったのです。ですから、今生きているうえで大切な教えなのです。決して死んでからの話ではありません。                (一楽 真 師)

 

 


カレンダーの言葉 平成31年4月


 

今、われわれも阿弥陀仏の国に触れることによって、初めから娑婆世界を内に包むような世界に目を覚ますことによって、娑婆との関係をもち続けるということが、生きる上での大前提になってきます。
 われわれの求めているものは、平等の法をさとり、平等の法に依って、瓦礫の山のような、この不平等の世界において、平等ということを開くということこそ、われわれが本当の意味で生きるということを満足させることであるわけです。
 平等の法に真実がある。しかし、われわれが身を置いている娑婆の現実は、上に裂かれ、縦に裂かれ、横に裂かれてばらばらになっている。そういう世界の中にあって、平等の法を表していくところに、生きることの満足があるということです。それが「諸仏菩薩を供養」するということです。
 「諸仏菩薩を供養する」というのは、金・銀・瑠璃・硨磲などの希少価値を表す物を供養することです。これによって、釈尊に問題があるのではなく、金・銀・瑠璃・硨磲などの希少価値を追い求めていく、われわれの生き方が問題にされています。供養とは、そういう希少価値を価値基準とはしないということです。そして、平等の法こそを最上の価値基準とするということを意味しています。そこから、金・銀・瑠璃・硨磲などを仏の前に投げ出すという、具体的な姿で表されるわけです。それが供養です。

 ですから、この国土の十七種荘厳の最後に、「供養」という問題が出されてきましたのは、阿弥陀仏の国に生まれるということは、われわれの欲が満足されるということではなく、娑婆世界にあって、現に生きている平等の法を表していくことのほかに、われわれの生きる意味の満足もないのだということで、まとめのところにこういう文が置かれているかと思うのです。
 そして、「彼の寿命を捨てて、余国に向かって修短自在ならん」ということによって何を意味するかと言いますと、平等の法や平等の慈悲によって成り立っているような境遇の中に止まらないで、どこまでも平等の法に生きていくということです。これはわれわれが想像していることと、だいぶ意味が違いますね。釈尊と阿弥陀仏の本願の違いというところには、そういう問題が絡んでいます。
 そして、最後に「自在之位」とあります。これは浄土の往生によって、凡夫が「八地の菩薩」がもっている「自在」ということを手に入れるという意味です。こういう、常識ではありえないことが、浄土の往生ということで起こるのだということです。この「自在」ということについて思いますことは、『歎異抄』第二条に、「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」という、親鸞のことばです。これはいかなる強制も入らないのが信心だということを意味しています。もし、恐れから逃れたいために信ずるというのなら、内面の恐怖が強制力をもって、われわれに何かを信じさせるということになります。
それであれば自在ではありません。ところが親鸞は、信ずるということだけは、どのような強制も離れた、われわれにとって最も自由なものであり、「自在」なものだというのです。

教化センターリーフレット  平成31年4月号

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