寺報と今月の言葉


今月の言葉

私どもが人間に生まれてきたということは

 遇いがたい人の身に遇うたということ。
     そういうことに目を覚ますのが念仏の信心です。

            (宗 正元 師)


寺報 平成30年1月発行

【生活の中に鏡を】 
 その意味では、この頃よく申しておりますが、聖徳太子の『十七条憲法』の第一条、いちばん最初の言葉が「和を以て貴(たっと)しとなす」です。まあ歴史的には聖徳太子のものということが否定されかかっておりますが、歴史的なことはおきまして、ともかく『十七条憲法』として伝えられてきております、その憲法の巻頭の言葉が「和を以て貴しとなす」と。つまり、人間は和を求めておる存在だと。すべての者が一つに相い和することができる世界を求めているんだと。そして正義というならば、そのすべての人の上に和を開くはたらきを正義というのであると。それ以外に正義ということは成り立たないということが、そこには押さえられましょう。正義とか真実とかといいますと話がどんどん面倒な方へいってしまうわけですけれども、元に返しますと何をいちばん求めておるんだということですね。その何をいちばん求めておるのかということを絶えず問いなおしていくと。そこに、和を以て貴しとなすと。
 そして、『十七条憲法』においては和を実現していく道として、一つには「帰依三宝(きえさんぼう)」ということですね。そして、もう一つには、「共に是(こ)れ凡夫(ただびと)ならくのみ」(聖典九六五頁)という、凡夫(ぼんぶ)としての自覚でございますね。その二つが押さえられてまいりますね。帰依三宝ということは、つまり自分の思いを立場にしないと。自分の思い、自分の考えを立場にしないということでございますね。善導大師は「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)うるに鏡の如し」 (聖全一・四九三頁)と、こうおっしゃっております。経典、あるいは経典にまでなっている教えは、私というもの、人間というもの、この人生というものを照らし出す鏡だと。常に自分がそこに照らし出される鏡。生活の中にそういう鏡を持つと。 
  帰依三宝というところに初めて私たちは、その生活の中に常に自分が問いなおされる鏡を持つ。その鏡がない時には、必ず自国中心だと。自分の国中心というところに立てば、当然相手も自国中心になっていく。そして対立が始まるということがございます。そういう帰依三宝ということと、そこに照らし出されて知らされてくる我が身というもの、「共に是れ凡夫ならくのみ」という自覚でございますね。どんなに才能がある、どんなにりっぱな人だといっても、それはある意味でチョボチョボだと。みな共に是れ凡夫ならくのみという自覚でございます。
                                         (宮城 顗 師)


カレンダーの言葉                                                                  平成30年1月


み佛の 宝の華は 世に満つる

「宝華千万種 弥覆池流泉」

 

「水を特相とする円かなしつらいとは、願生偈に『千万種に及ぶ種々の宝の花が、池や泉や渓流にあまねく散り、覆っている。微風が花や葉の上を吹きわたるとゆれ動き、それらが美しく照り映えている』と説かれているからである」

浄土論註に説かれる莊嚴三種功徳成就のうちの莊嚴水功徳成就の部分です。
水という表現をもって仏の慈悲がわれわれの環境を作りあげて仏道に着かせるという内容です。

それで、曇鸞は「波揚りて無量なり」と言っていますが、水が流れ、それに風が当たる。すると、そこから「仏の声」・「法の声」・「僧の声」、「寂静の声」など、「衆の妙法の声を聞く」とあります。この場合、聞くのではなく聞こえてくるのです。聞こうとして聞けるものではありません。これは、『大経』 
の下巻の、「其の名号を聞きて」(『聖典』四四頁)という場合も、名号が聞こえるのです。しかも、どこまでもわが身に聞こえるわけです。ここでは「聞こえる」という表現をとっていますが、「見る」ということと「聞こえる」ということは、決定的に違うのですね。なぜなら、見るという場合は、自分を離れたところで見るわけです。聞こえるということは、身に響いて「聞こえる」わけです。そのことによって、仏・法・僧も自分の外側にあるのではなく、この身のところにあるのだということを表そうとするわけです。
 ところが、われわれにとって仏教は、どうしても外側にあるものとしか考えることができません。
 例えば、永平寺で寒修行している人がいますが、あのような修行をしている姿をテレビなどで見ますと感心します。しかし、あの道が自分の道だとは思えないわけですね。とうていそのようなことはできないと思います。そうしますと、その道は自分の外にある道ということになります。では、われわれの道はどのような道なのかという問題になります。
 それに対して、身を貫いてあるものが、浄土真宗という道である。これが親鸞の了解であったかと思います。
 そういう意味で、「水」をもって環境の代表とするわけです。そこに仏・法・僧をはじめとして、色々な法の声がわが身に響くことによって、わが身の中に仏道というものを見ることができると同時に、環境がいかに深い愛情をもっているかということを意味しているかと思います。道を外に見て、自分はつまらない者であるから、道からはずれているのではないかと考えているものに、わが身自身のところに道を見いだすということが起こるということです。
 とすれば、環境は非常に深い愛を表していることになります。環境が愛です。その環境がわれわれを育てるわけですね。ですから、浄土という環境は、われわれに対して知らせているわけです。そこにあなた白身が立つところの道がある。あなたが生きることのできる道があるのだ、と。
 しかし、われわれを取り巻いている、国とか社会という環境は、命を育むというような環境としてあるわけではありません。また、それは制度としてあるために、必ずしも民衆のことを考えてあるわけではないのです。そういう意味では、私どもにとって本当の意味で、国と言えるところは浄土という世界ということになります。この世界だけが、われわれの命を充実せしめるところの愛をもっているということです。
 先はどの、「その名号を聞いて信心歓喜」するという、南無阿弥陀仏という法も、この環境から聞こえてくるわけです。それは、「わが身に道あり」と聞こえるわけです。

 

 

 

 

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