寺報と今月の言葉


今月の言葉

 縁起の関係にあるというのは、

自己は他の一切のものによって成立している。

そして、他の一切は自己を内容として成立しているということです。 

          (添山真淳 師)

       


寺報 平成31年1月発行

【教行信証(きょうぎょうしんしょう)】 慈悲の世界は、あなたはあなた、私は私。或いは、あなたの物と私の物というような対立や、私は賢くてあなたは愚かという差別が取り払われてしまった世界です。自己の欲望を満たすために、自己の名誉のために、自己の都合のためにという利己的なものが除かれてしまった世界です。そして、私があなたであり、あなたが私であります。あなたが幸せであることが私の幸せです。という世界です。それで、そこに苦悩に沈んでいる人があれば、当然、あなたの苦悩は私の苦悩、あなたがその苦悩から解放されない限り、私の幸せはありませんと、他の痛みを自己の上に感じて、凡ゆる苦労にも耐えて、他をその苦悩から救うために、いつまでも、どこまでも働く、という活動が展開していくのであります。そこで、如来さまの慈悲を大慈悲心といいます。この大慈悲心は「一切衆生を凡(すべ)て救わねばおかない」という誓い、弘誓(ぐぜい)と表現されたり、「救いたい」という願い、つまり、本願と表現されたりするのであります。
    さて、如来さまはその大慈悲心をもって、衆生救済の活動を展開されていくのであります。先ず、衆生を仏陀の悟りを開かせるために浄土へ導かれる、つまり、往相回向(おうそうえこう)として、教・行・信・証という形で展開されていくことが示されています。一般仏教では教行証ということによって修行されていくので、よく似ていますが、如来さまの活動は教行信証として展開するのであります。
 如来さまの衆生(しゅじよう)救済の活動が衆生の前に現われる一番最初は「教(きょう)」であります。教は経典として説かれるもので、浄土真宗では真実の教えを説かれたものとして、大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)を根本の拠りどころ、つまり、所依(しょえ)の経典とするのであります。
 次に、「行(ぎよう)」は如来さまの衆生救済の活動全体をさすのですが、その中で一番大切なことは、インドで説かれた大無量寿経を一切衆生のもとに、衆生に受け容れやすいようにして、送り届けることでありますし、教えを受け容れた衆生を浄土へ生れられるように育て上げることであります。
 次に、「信」は如来さまの活動を衆生が受けいれて、その受け入れたものが働くという姿をいいます。それは恰(あたか)も、お母さんが赤ちゃんを膝の上に乗せてお乳を飲ませる。赤ちゃんのお腹の中に入ったお乳は赤ちゃんの血や肉、骨になって、赤ちゃんを大きく育てるようなものです。私達の中で働かれる姿を信といいます。 そして、最後の「証」は如来さまの活動が衆生の上に至り届いて、浄土へ導かれていき、そして、衆生自身が還相回向(げんそうえこう)(本願力によってこの世において、世の人々を導き救う)という形で育てられることが事実として展開することを示されるものです。こうして、一切衆生が如来さまの活動によって救済され、浄土へ導かれていくことを示されたものが浄土真宗の教えであります。
                                        (添山真淳 師)


カレンダーの言葉 平成31年1月


荘厳無諸難功徳成就とは、偶に「永離身心悩・受楽常無間」と言えるが故に。
 此れ云何ぞ不思議なるや。経に言わく。身は苦器と為す、心は悩端と為す、と。而るに彼には身有り、心有りて、楽を受くること間無し。安んぞ思議す可きや。

 

 曇鸞は、『法句譬喩経』という経典によって、「身は苦器と為し、心は悩端と為す」と述べています。それは人間として生きていることが、すでに安らかならざるものを抱えているということを意味しています。その点で、身を生き、心をもって生きる限り、「諸難」を離れることがないということがあります。
 仏教は、その人間の抱える問題を「五怖畏」(ごふい)として表しています。身心を生きる限り、「難」から逃れたいということから、人間は畏れが、直接自分に降りかからないようにという生き方をします。ですから、人間の生き方は本質的に保守的な生き方になっています。五怖畏というのは、「死畏」(死の畏れ)「堕悪道畏」(地獄に堕ちることを畏れる)・「不活畏」(食べることができなくなることの不安)・「悪名畏」(悪い評判の立つことを畏れる)、そして、「大衆威徳畏」(大勢の人の前で自分の立場や責任の所在を明らかにしていくということを畏れる)の五つの畏れです。
 [五怖畏]のもとになるのは、「我・我所」、つまり、「我あり、我が物あり」という我執であり、それが乗り超えられるところに、五つの畏れから解放されるということが出てまいります。それは親鸞においては、「本願を憶念して自力の心を離れる。これを横超他力と言う」ということばによく表されています。この「我・我所」とは、具体的には「俺」とか「私」とか言っているそのことが、あらゆる苦を生み出してくるもとになっているということです。
 ここの偈文に、「永く離れる」とありますが、これは「私」と言われるものの正体に触れて、「私」を離れるということです。しかし、その「私」を離れるということは、私の側からは出てこないわけです。そういう意味で、「永く離れる」と言いましても、意識的に離れる道があるわけではありません。
 ですから、「私」を離れるについては、「私」を超えたものを意味する「浄土」に触れて、「私」というあり方がひるがえるわけです。「身心の悩みを永く離れる」ということばには、そういう意味があります。したがって、「私」がいかなるものであるかを知るについても、それを離れるについても、「他力」という問題に関わってくるかと思います。

教化センターリーフレット                                                平成31年1月号

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