寺報と今月の言葉


今月の言葉

 

自分が何になるか、自分の将来は他者との関係性の中で決まっていくんです。     

      (福岡伸一 師)


寺報 平成30年10月発行

【正定聚(しょうじょうじゅ)の人生】                    
 一般に日本人は、神社仏閣に初詣をしたり、お守りやお札をいただいたり、仏壇やお墓におまいりすることを宗教的行動だと考えているようです。しかも平素から、このように心がけていると、人生の危機的状況に出会った時に、神仏に願いごとをすればかなえられるものだと、心のどこかで考えているようです。何か神仏と取り引きをしたり、おねだりをしているようにも受けとれます。しかも、自分の都合のよい結果だけを追い求めて生きているのですから、自分の思い込み通りのご利益が得られなければ、それこそ次から次へと神仏を求めて歩くことになります。そうした結果、いつしか大切な人生が、ただただ悩みをなくすことにかかわり果てるだけに終わってしまうやもしれません。またたとい、ご利益をいただいたと本人が思っていても、思っているそのままで、大河に流されている木の葉の上でふんばってひとときの安心を得た蛙と少しも違わないのかもしれません。そうしたこと事態が、迷いの夢だよと、喚びかけているのが南無阿弥陀仏なのであります。
 『法句経(ほっくきょう)』に「人の生をうけること難く、死すべき者の寿命を保つこと難し、正法(しょうぼう)を聞くこと難く、覚(めざ)めた人たちの出現は難(かた)し」とありますが、この意は、裏から申しますと、人間に生まれたのは、正法を聞き、仏になるところにあると諭されているのでしょう。これを真宗流に申しますと、弥陀如来の喚び声によって、迷いの夢から覚めた人生の歩みが新たに生まれてくるのです。こうした歩みを「正定聚不退に住す」と、蓮如上人は念を押すかのように示されているのでしょう。この正定聚の人生を、より明らかにするために、「正信偈」にある「煩悩を断ぜずして涅槃を得(う)」という一句でもって、真宗独自のご利益を示してくださったのです。ご承知のように「煩悩を断じて涅槃を得る」というのが、部派仏教の立場であります。そこで煩悩を断ずるため、煩悩のおこる旺盛な身体を傷つけたりする苦行を強いたりしたのです。しかし、どれほど実践しても釈尊と同じ境地に到ることが出来なくて、いつしか釈尊は特別な人ということにしてしまったようです。
 そこから、釈尊も釈尊のさとりも、われわれとかけ離れたものではないんだという運動が起こり、大乗仏教が生まれてきたのです。そして大乗仏教の菩薩方は、釈尊がさとったのは、「煩悩を断じて涅槃を得」という考えではなくて、むしろ、人間として無理のない「煩悩を断ぜずして涅槃を得」というあたりまえのことを覚(さと)られたのだと見たのです。つまり、あたりまえのことをあたりまえとして受けとられたのだということでしょう。
                                    (宇野行信 師)


カレンダーの言葉 平成30年10月


「正覚の阿弥陀」とありますが、これは釈尊がもっていたところの仏陀の意義が、「正覚の阿弥陀」ということばで表現されているわけです。したがって、この世を超えているという意義を表しているのが仏陀であり、その仏陀のおわします所を浄土と名づけるのだということですね。
 そういう、この世を超えた場が、つまり、経験外世界が仏陀として表されています。そして、その仏陀は智慧をもって表されたり、真実清浄ということばで表しています。真実清浄という世界は、われわれが経験外の世界として考えるような、黄泉の世界とか暗黒の世界、あるいは、天上界のような世界では決してありません。ですから、仏陀にはわれわれが経験する世界を超えているという意味があります。
 その仏陀を、「光明」・「智慧」・「清浄」ということばで表すのは、それが真実であるということを表すためです。では、なぜ、仏陀が真実として表されるのかと言いますと、仏陀に出遇うことによって、われわれの経験内世界が決して真実でもなければ清浄でもないという、そういうひるがえりが起こるからです。したがいまして、その世界は単なるわれわれの経験外世界と異なる、仏陀という意義をもつ世界だということで、その仏陀が「主」となるわけです。この世を超えていると同時に、真実・清浄ということを表すものだということで、仏陀が「主」となるわけです。そしてまた、そこが、単に理想的な世界ではないということを言うために、「浄土の命を捨てて、願に随って生を得て、三界雑生の大の中に生ずと雖も、無上菩提の種子、畢竟じて朽ず」ということが言われてきます。

 それは、われわれの経験内世界を超えた経験外世界に触れることによって、われわれの経験内世界が転換し、その転換によって、「三界雑生の火」の中に立ち続けることができる。そこに生き続けることができるということが、「朽ちず」ということの意味かと思われます。

 ところで、今のことばの前に、「住は不異不滅に名づく」とあります。「異」というのは、ある状態からある状態に変化する、変化という概念を表すことばです。そして、全く消えてしまったことを表すのが、「滅」ということばです。
 われわれは、「今度こそは」、「これを縁にして」ということばを使うことがあります。しかし、そのように志すところの心が、いつの間にか変化し消えていくということを、いやというほど経験しています。ですから、何か不祥事などがあった時に、「このことを縁にして」と言われますと、「またか。何度それを言えば気が済むのか」という気持ちになります。それは、自分自身においてもそうです。「今度
こそは」と、いつでも新たな出発を思い浮かべるわけですけれども、その全体が変化し、いつの間に消えていく。そのことの繰り返しです。ですから、われわれの心においては「住持」ということはありえないということですね。
 そういうことから、この世を超えている、仏、および、仏の世界に触れることによって、われわれに持続する道が生じてくるということを、「浄土の命を捨てて、願に随って生を得て、三界雑生の火の中に生ずと雖も」ということばで表現されているかと思われます。こういう『論註』のことばによるならば、決して、浄土という世界は憧れる世界でもなければ、楽をしたり安らかに眠るために行く世界ではないということがわかります。真実・清浄ということを、「雑生の世界」の中に表していくような営みが生まれてくるところの場が浄土であるということです。

教化センターリーフレット                                                平成30年10月号

ダウンロード
教化センターリーフレット
今月の言葉、もしもし相談、仏典マンガをPDFでお読み頂けます。
アドビアクロバットリーダーをインストールしてお読み下さい、無料です。
kyoukasenta30-10.pdf
PDFファイル 393.5 KB